俺と文字と言葉とプロトコル
「約束はみんなこわれたね」
好きな作家の森博嗣が
「数学や物理ができないと思い込んでいる人間が文系に属し
そうでない人を彼らは理系と呼ぶ」
と、書いていた。
実は俺って理系にあこがれる文系なのでは?
と思うことがたまにある。
基本的に「そこに至る計算方法(ロジック)」が分かれば満足で、
実際に計算するのはめんどくさいと感じてしまう。
(ただのめんどくさがり屋か?)
そういえば昔頭の中では完成してるロジックで
関数に分けたんだけど、その関数の中身を書いてなかったこともあった(^^;
(いや、俺の頭の中では終わったロジックだったので・・・)
アインシュタインの
「答えは分かるけどどうやって計算したか分からない」
というエピソードとは真逆の性格なのだ。
でも、職業的に理系っぽく脳味噌が働く事がある・・・
この前タツヒロがふと言った言葉
「頭で考えたことがそのまま文字として
画面に出てくる時代が来るのかねぇ」
に、妙に違和感を感じてしまった。
文字というのは原始的でシーケンシャルなプロトコルだ。
そして思考はもっと自由でランダムだ。
そんなものを文字として表現することに
はたして意味があるのか?
と、言うか言葉として成り立つのかさえ怪しいと思う。
と、言うことをそのままタツヒロに伝えてしまって
「へー」
って顔をされてしまった。
別に文字なんて古臭くて
プロトコルとして貧弱だといっているわけではない。
逆にうまい文章を書ける人を尊敬もしている。
(俺は「てにをは」も怪しいからね)
たとえば、「詩」
短い文章で本当に情景が浮かんできたりして
すごいなぁと感心する。
逆にこれが「言葉」となると
さらにプロトコルとして優れてくる。
怒声をあげたり、かすれそうな声で囁く事で
さらに伝わる情報は増える。
また、一番分かりやすいものとして
「歌」がある。
もともと歌うのが好きなせいか
歌詞の意味まで色々考えちゃったりして
本当に脱帽する。
さらに実際に会って話をすれば
その人の表情やしぐさからさらに情報は伝わる。
イメージとして伝わってくるものは強烈だ。
下手な言葉を100万回繰り返すより
ひとつのイメージで伝わる量のほうが多かったりする。
たとえば俺が
「アニーカワイス」
と、100万回言うよりも
写真を見せたほうがかわいさが伝わる。
そういう意味で絵心のある人というのは
言葉とは別のプロトコルを持っているとも言えて
実はすごくうらやましい。
でも、文章というのも嫌いではなく
斜め読みができたりする利点もある。
(こんなとりとめも無い話、みんな斜め読みでしょ?)
と、ここまでなんとなく言葉について思ったことを
シーケンシャルに吐き出してみました。
「言葉に力は無い」
という言葉自体が力を持っているという
そんな矛盾があって俺は言葉って大事だなぁと
感じたりするんだけど、
あんまり言葉遣いがよくない自分に
ちょっとヤキモキします。
(絵心もないし・・・)